昭和四十八年九月十一日
X御神誠 「物事に時節を待たず、苦をすること」



昨日久留米からと云うてお年寄りの方ばかり三人で、それぞれ願いをもって、お参りをして来られた。久留米の井上さんの御親戚と云うことであります、その中の一人の方はどう云う事かと云うと、お孫さんの結婚の問題何回も見合いをされたりいろいろと、ーー次々と失敗に終わってーーー、ですからどうぞと云うお願いであった、それでね今日私が初めてお取り次ぎさせて頂くのでございますから、まあ云うなら今日からその事に就いての働きが始まります、それで自分でバタバタする事はやめなさらねばいけない。
あそこにも頼みに行こう、此処にもお願いしに行こうと、成程それは自然の働きと云うものがある、その働きに便乗すると云う事は大事な事ですけれども、あんまり云うなら嫁り遅れたと云うて、バタバタしなさったらかえっておかげになりませんと云うて、お話した事で御座います、それでその事をお願いさせて貰いよりましたら、お知らせ頂いた。
それでそれは薫ると云うこと、草冠に重いと書いて心ね、くんと云う字、草冠に重い、草冠と云うのは、自然に重点をおくと云う、成り行きに重点をおくと云う、心と云う字は四つ、これは心と云う字、ですね、だから成り行きに重点をおくのです、だから成り行きを大事にしてゆけばよいと云うだけではなくて、その前に重点を心においてゆくのです。云うならば本気で信心をさせて頂く気になって、成り行きを大事に所謂成り行きに、自然の働きに重点をおいて、そしてそれだけではなく所謂心の上にいわゆる、心のおかげの上に、受けものを造る事のために、そのことは神様にお任せして信心をすることだと、昨日お話ししました事ですけれども。
物事に時と節を待たず、苦をすることと言うのは、この薫ると言う字一字にある様に思います、只そのことをどうぞ、どうぞと言うてお願いするのじゃありません、もうお願いをしたその事は、お取り次ぎを頂いたのですから、もう早速働きが始まるのですから、それに委ね任せなければならん、そして成り行きを見てゆかねばならない、自然の働きをいわゆる大事にしてゆかねばならない。それだけではない、いわゆる心に重点をおかなければならない。
それはもう早く早くとばかり、それはもうと言うような願い方する人がありますけれども、お取り次ぎを頂いたら、ここんところが大事です、余り急いで言うなら慌てて、今日私あの神前でここの参道のところにあれが立ってますでしょう、車止めと言うのが、どういう事であろうかとこう思う、それであの物事時節を待たず苦をすることという、御神誠を頂かして貰いましてから、ははあこれは通るところではない、いや通ってはならないところを通ってはならないと思わしていただいた、と同時にこれは又同時にお取り次ぎさせて頂いた。
そしてそこに頂かして頂きました、薫ると言う字から聞いて頂いた、そこで成り行きを大事にすることをここでは、ここではやかましく言われますが、成り行きを大事にすると言う成り行きに重点を置く事と同時にです、その心と言うものが大事、信心のいわゆる眼目であるところの、愈々本心の玉を研く、日々の改まりが第一と言うところに焦点をおいてしかも、どうでもそこにおかげを受けたいと言うなら思う程、先ずは受け物を造らねばいけない、と言う事です、それはこの薫ると言う字一字に全部含まれておる。
それから今朝私が頂いた、今の参道の車止めの事私共が急ぐあまり通ってならないところまでも通って、それは通ってならないところを通る事は、これは御無礼であります、神様に対する、神様には神様の御都合があるのです、そこんところを分からせて頂くと言う心にならなければ、いけませんですから、どう言うところに心に重点をつくる、おかげの受けものをつくると言う事はどう言う事かと言うと、私は愈々豊かな大きな心を頂くことに精進をさせて貰う、焦点をおかなければならないと思う。そこで願わして頂く事も言わば大きなこと、まあ大きなことと言えばなんですけれども言うならば、自分の願いそのものはまずお取り次ぎを頂いて、棚に上げとくような気持ち、そしてならこれを人のこと、自分に直接関係のある、人達の難儀なことを願ったり最近ここで言われる、合楽教会大発展と言うようなことに焦点をおいて、そのために修行をする。
第一そう言う風に切り替える、合楽教会大発展の中に私どもの願いの様々な、願いと言うものは含まれるのです、それが自然と願えれるようなおかげを頂くのに、心を限りなくうつくしう、または中には大きうーーー、とても人のことだん願う事はありません、自分の事で一杯ですからと言うような小さい願い、小さい思いからもちっと大きな心にならせて頂いて、そこでなら心を大きくならせて頂く事のために、言わば修行をせねばなりません。たったこの位のことがどうしてこんなにいらいらするだろうか、たったこの位のことに、どうして腹が立つだろうか、たったこの位のことに心がこの様に暗くなるだろうか、心が小さいからです、自分の都合よい時だけはにこにこしとるけれども、そう言うような時でない、ときにはもう一寸した事がいらいらの元になったり、腹の立つ基になったり、不安焦躁の基になったり、しておりますから自然成り行きを大事にする、自然に重点をおけと言われても、それが中々おけん訳です、焦焦してそして通ってならんところを通って、神様に御無礼を重ねる結果になる。
そこで心を大きくさして頂くため、信心修行が必要なのです、そこでその成り行きの中に例えば起きてくる様々な問題、様々な事柄が御座います、その中には言うならば苦い思いをしなければならない事もある、けれどもそう言う苦い思いをしなければならない時に、生神金光大神とお縋りしてそれを黙って、それを黙って合唱してうけて行こうと言うような、精進が一番心を大きくする私は働きが生まれて来ると思う、心を大きくどげんしたらなるでしょうか、それは日々起きて来るところの問題を、にがいたとえば思いをするときにです、それをたとえば生神金光大神様に、お取り次ぎを頂きなから、それを黙って消化して行く受けこなして行くところの修行、私はここのところの修行ができなければね、私は本当のおかげにはならないと思いです。
只自分の感情のままに日々を日暮しをする、ああもう都合のよか時はもうちよっと都合がええ、あいた今日はちよっと顔いろが悪い、言うなら表情が固い、何かあったばいのとすぐわかる人がありますね、そして自分の行かなければならない、通じなければならない道も通らない、行わずにそして自分で自分はどうしてこんなにあるだろうかと言うて、なげいとる。
そう言う問題こそ金光様、金光様とお縋りさして頂いて、そしてそれを受けこなさして貰う、言うなら弱い胃腸がです、苦いせんぷりを頂く事によって、愈々健全に愈々強くなってゆくようにです、そこんところを例えばおろそかにしては、大きな心は生まれません、その大きな心にならないとです、昨日申しますように例えば願いなら、願い事を、でも成り行きをじっと待って居られる、いわゆる物事に時節を待たず、苦をすることと言うように時節を待たんために、苦労をする。
例えば春夏秋冬と言う、自然の中に季節と言うものがありますように、もう今こそ例えば冬の最中、いわゆる冷たい思いをしておるとき、それをじっとして待っておればよいばってん、それを早廻りしてから、言わばいくもんですから、待っておればかならず、冬の後は春が来る、花さく春が来る、けれども急ぐ余りに、春のほうは通り過ぎて今度はもう、夏の方へ行ってしまう、そしたら暑い暑いと言ってそしてそれが待ちこたえんもんだから、そこを待っておけば又涼しい秋がやってくるのだ、けれどもそこを通りぬけてから又もとの冬に行っておるように、とまあ人がどの位居るか分からんです。
いつも寒いところ暑いところばっかりしか、ちやんと時節を待ってれば春もくれば秋もくるのです、それがこころが小さい、焦焦じかじかしておるからおかげを頂き止めきらずに終わってしまうと言うような、惜しい生き方をしとる人が沢山あろうかと思う、今こそ修行の時今こそおかげの受けものを作らして、貰う時と言うようにです。言わば成り行きを大事にしながら、心に重点をおいていわゆる薫と言うことを精進さして貰うと言うことがです。
時節を待っておかげをうけて行く事になるのです、自然な実にスムーズなおかげにもなって来るわけです、だからそこのところを頂き損わないようにしなければいけません、そのためにはです、その間を例えば心を大きくさせて頂くための、精進心に重点をおいて、受けものをつくることに重点をおいてお願いをする、そのことは神様に委ね任せてのおかげ、そこならちゃんと当然くるところの春にも、言うなら稔りの秋にも、花咲く春にも会うことが出来ると言う事になるのです。物事に時節を待たず苦をすること、と言う内容を聞いて頂きました。 どうぞ。